この五日間に起こったことメモ

誰の役に立つとも思えないけれども、忘れないように思い出しながら書いておく。とはいえかなりうろ覚え。それとうちは仙台市の中心部から多少はずれている場所に位置していて、比較的恵まれた状況(家がある・備蓄がある・水が出る・電気はまだ・ガスはプロパンだけど怖いので封印中)。

2011-03-11

出先のビル4Fで地震に遭遇。最初はこの間の地震の余震か、と思ったもののどんどん揺れが強くなる。宮城県沖地震がついにきたなという印象。揺れがはげしくてそこらで物が倒れたり壁が壊れたり。立っていられないのでしゃがんでた。

ビル自体は結構新しいので崩壊まではしないとは思うものの。揺れがある程度おさまった時点で火災発生・避難の放送が流れるので速やかにビルの外へ。ガラスが危険なので道路の真ん中辺りまで避難。すぐ近くの大きめのとおりでは結構普通に車が走っている。信号も一箇所だけついてるけれども、これは災害用に止まんないようになっているってことか。何度か大きめの余震。

一番近い避難所へ徒歩で移動。寒い。防寒着は倒れた物に阻まれて取ってこれなかった。途中で携帯電話にワンセグがついていたのを思い出して見てみるけれども、でかい地震が起こったくらいの情報しかまだない。周りからは「宮城県沖地震とは別っぽい」「津波が来る」とかの情報が錯綜。津波が来た実家がかなり危ない(後述)。

避難所でしばらく待機後、一旦ビルに戻ることになった。移動中に少し雪が降ってきてますます寒くなる。危険ではあるものの、ビルの中に入り、コンセントを抜く、倒れた物をある程度直すなどしたあとで解散。防寒着とってこれた。

帰るために地下駐輪場へ。停電でまっくら。携帯電話の電気を頼りに自転車を探して地上へ。雪が強くなってくる。まずは幼稚園へ下の子を迎えに行こうと移動開始。とたんに雪が吹雪のように。ほぼ前が見えず。かなりの危険を感じたので降りて傘さして歩いて移動。しばらくすると雪が弱めになったので傘たたんで再び自転車で移動。

幼稚園到着。すでに嫁さんが迎えに来て帰ったらしい。つまり嫁さんと下の子は無事ということですこし安心。たぶん上の子(小学生)も無事だろう。

帰宅。家の中で嫁さんが片付け中。子ども二人は車の中で遊んでいた。自宅の実質的被害はコップが3〜4個割れただけ。この辺りは嫁さんの対策がすばらしかった(後述)。倒れたのは天井つっぱり系の棚のみ。天井つっぱり系はたまにチェックしないとまずい。ちょっと前の三陸沖あたりの地震後にチェックしようと思っていたけれども忘れていた。

ライフラインの点検。電気は不通。水道は出るけれどもいつ止まるかわからない状態。電話はひかり電話なので電気ないと無理。こないだひかり電話になったばっかり…。ガスは都市ガスではなくプロパンなので、漏れていなければ使えるはずだけれども危ないので封印。食料はかなり備蓄あり。カセットコンロとかも。だいたい一週間はなんとかなりそうな量。避難はとりあえずしなくても良さそう。

家の中をある程度片付け。余震が怖いので明るいうちに食べられる物を食べて車に移動。車はガソリンを入れたばっかりだったので夜寒くなったら暖房でしのげそう。それからラジオが聞けるのが大きい。いちおうこのあと、電池で動くラジオも発見された。

ラジオでニュースを聞く限り、沿岸部が悲惨なことになっているっぽいことがわかる。マグニチュードは8.8。かなり強い。

実家はすっかり有名(こんなことで有名にはなりたくなかった)になってしまった仙台市荒浜にあるので、おそらく津波の被害を受けているはず。実家の家族(祖母と母・父は仕事で津波の影響がない場所にいるはず)についてはある程度の覚悟を決めておかざるをえない状況。

2011-3-12

マグニチュードが9.0に修正されたことを知る。9って。漫画とかの大地震の描写でも8.xくらいなのに。

家の掃除中に、宮城県沖地震の対策マニュアルみたいのが出てきた。これによると宮城県沖地震の想定マグニチュードは7.5とのこと。もうこれが宮城県沖地震でいいような気がする。

水がまだ出るので、ペットボトルにためていた古い水を風呂桶にうつして、水道水をペットボトルにためる。幸いろ過式の浄水器があるので、多少濁っていてもなんとかなるレベル。

荒浜の実家については心配、というよりはなるようになるしかない、という感じ。

荒浜では長い間津波らしい津波が来たことがない。だいたい25年くらい住んでいたけれども、一番やばいと思ったのは津波警報発令後に貞山堀の水が干上がってた時くらい。それでも避難することもなく、津波が来るということもなかった。

ただ、かなり古い時代に海岸線からだいたい5〜6kmの場所まで津波が来たことがある、という記録がある。その後、仕事上でそのレベルの津波が来たら仙台東道路が防波堤代わりになるとかいう話を聞いたり。

1ヶ月半ほど前に兄のPCの設定のために兄の車で家に向かう途中、仙台東部道路のあたりを通ったので、津波の話をちらっとした。そういう津波が来たら家はなくなるだろうな、という話を兄と軽くしていた。

何時くらいかはまったく覚えていないが、突然、聞き覚えのある声で誰かが訪ねてきた。実家の母だった。母は実家から6kmほど離れた場所で地震に遭遇後、車を飛ばして帰宅、祖母と近所のおばあさんを連れて車で逃げた、とのこと。)一気に力が抜けた。別れた後、あれは幽霊だったんじゃないかと思うほど(後で電話で話したから幽霊ではないことは確か)。

なお、津波発生時は車での逃走は厳禁。高台にいち早く逃げること。荒浜の場合は高台が特にないので、小学校に逃げるしかない。実際小学校に避難した方々は数日間孤立はしているものの、なんとか生き残れた模様。

今日も車で寝る。

2011-03-13

放射冷却でとても寒い朝。今日の夜からは自宅のほうがましという結論に。

この辺からあんまりラジオをつけないように。何人死亡、何人不明とかを聞いていると気が滅入ってくる。かといって情報が何もないのも困るのでたまに聞く程度にする。

電気が使えるという事務所へ。とりあえず携帯電話の充電をしたい(充電すればワンセグが見られる)。インターネットは繋がらないがひかり電話がつかえる、というのはおかしいので調べてみると、社内DNSが死んでいた(このマシンは落下してその後も起動せず)。ルータのDNS設定を8.8.8.8にしてみたところ、問題なく接続可能に。Twitterに生存報告しておく。

それから河北新報社前で新聞を見て、あらためて事の重大さを痛感。

2011-03-14

地震に遭遇した出先に行く。しばらく業務は無理(そりゃそうだ)なので待機ということになった。続いて事務所に向かい、子ども用のDSと携帯電話を充電。地震前・地震後の写真が公開されているので見てみると荒浜の実家はやはりなくなっているっぽい。

行き帰りに町の様子を見る。結構信号が復活していたりする。コンビニや店舗には結構な行列。行列になっていないコンビニに一件ほど入ってみたけれども重要なものはほとんどなし。

暗くなってさあ寝るかという時になって、急に外が明るくなった気配。近所の電気・街灯などが復旧したっぽい。ただ、自宅のブレーカーを上げて試してみるものの自宅には届いていない模様。東北電力のコールセンターとやらに電話してみるもつながらず。面倒なので寝る。

それから、親戚の家に避難している実家の人々に連絡をとってみた。祖母・父と多少話をできた。電気あり・水なしとのこと。嫁さんの実家とは地震直後以降連絡がとれない。携帯電話の電池がないものと思われる。

2011-03-15

朝になっても電気は点かず。アパートの隣室でも同様だった模様。とりあえず事務所に充電しに向かう。で、今事務所でこれを書き終わったところ。